浄土真宗の開祖は親鸞(1173〜1262)である。老若男女、更に身分の違いや貧富の違いを問わず、狩猟などの殺生を職とする罪深い者もひたすらに南無阿弥陀仏を唱えれば極楽往生でき、浄土真宗こそが真実の教えであることを常陸や武蔵などの東国にまで赴き布教した。しかし、親鸞の孤高の教えは民衆の心に伝わらず親鸞の時代の本願寺は全くの零細教団に過ぎなかった。 過酷な年貢の取り立てに苦しむ門徒達は次第に政治権力との対決を強め、たびたび世に言う一向一揆に及んだ。一向一揆は蓮如とは何の関係もなく、一揆に加わった門徒達は破門するとして激しく非難する書状も近年見つかっている。一向一揆は大勢力となった農民達の権力者への反抗であり、無慈悲な年貢を取り立てる領主に対決してその後100年近く朝倉や織田らの戦国大名を脅かす勢いであった。朝倉義景が義昭を奉じて上洛できなかった最大の原因はいつ侵攻して来るかも分からない一向一揆への恐れであり、戦国の覇者・信長をもっとも苦しめたのも本願寺教団だった。本来の教えに反する行動を制止できなくなり身に危険すら迫ってきた蓮如は僅か4年余で万感の思いを抱いて吉崎を去った(1475年)。同行したのは家族数名に側近、護衛の者達だった。 作家・津本 陽は当時の日本の人口が約1500万〜1800万人、その半数は浄土真宗の信者だった推定する。戦国大名達は急速に勢力を伸ばしてきた信長包囲網を作るために死を恐れずに大兵力で組織的に団結して戦う本願寺教団を取り込んで共同戦線を作った。それは信長にとって四面楚歌の危機的状況だった。 浄土真宗は真宗とも一向宗とも言われる。真宗門徒の中に一向衆と呼ばれた時宗 (衆) の信者が大量に入り込んだので浄土真宗が一向宗と呼ばれたが、本願寺は一向宗と呼ばれるのを嫌い
浄土真宗を正式の宗派名とした。しかし歴史的に当初は浄土宗を浄土真宗と言った時期もあり、更に真宗には真の教えという意味が込められているので浄土宗側が激しく抗議、明治政府は真宗の宗名だけ許した。
現在、西本願寺は宗名として浄土真宗本願寺派(信者数約800万人)と称し、東本願寺等真宗 9派 (大谷派,高田派,仏光寺派,等) は真宗大谷派(略称として大谷派、信者数300万人)と称している。
参考になるサイト 『宗教年鑑』 (文化庁) |
真継伸彦(まつぎ のぶひこ、1932〜2016)は信仰をテ−マにした作品を多く残した。姫路獨協大学教授などを務めながら、信心とはどのようなものかを追い求めた。『鮫』は本願寺教団から出されている様々な啓蒙書よりも読者を強く魅了してやまない傑作である。日本の人口約1500万〜1800万人の半数近くが浄土真宗の信者であったと言う論者(作家・津本陽)がいるが、巨大で強固な本願寺教団が育った背景を考えさせてくれる作品である。絶版になっているのが惜しい。 越前国坂井郡坪江庄三ヶ浦安島で生を受けた「おれ」は飢えと差別の中で育った。応仁の乱の頃、実った米は領主に取られ農民はカエルやヘビやとかげを食らい、雑草やむしろのわらまで食べた。栄養不足で結核も異様に多く、坪江荘の半数を超える1500余人が餓死した。激しい飢饉でも年貢を払えない村には朝倉敏景の侍衆が押し寄せ、見せしめに女子供の耳を削ぎ家を焼き払ったという。「おれ」はふるさとを捨てて逃散し途中で死肉を食べながら京の都を目指した。でも、温かいかゆを布施する寺があると聞いて行き着いた都では何万という屍が河原に放置されていた。生をつなぐために東山や山科などの公卿の別荘、神社や寺に押し入り、略奪や暴行を繰り返し数えれば十以上の命を奪った。ある日、林の中の尼寺に押し入り寝所のうら若い尼を奪って欲情に燃えながら駆け続け木陰で止まった。 ![]() 地獄の闇の中で悪逆を尽くして生きてきた「おれ」と見玉尼(けんぎょくに、1448〜1472)との運命的な出会いであった。 「おれ」はその一年後、父(蓮如)と共に吉崎に移っていた見玉尼を追い、命が尽きようとしていた見玉尼に再会した。 『鮫』(真継伸彦、河出書房) ・・・・・ 「お話しなされ、お話しなされ、妾(わらわ)にいっさいを話して、そして忘れてしまいなさればよい。人の世の思い出は、みんな忘れてしまわねば、重石となって妾どもが浄土へ参るさまたげになるもの。人の世に置いてゆくものじゃ。思い出は心に閉じこめておくより、人に話したほうが忘れやすい。さあ、忘れるために、妾にみんなお話しなされ」 かすかに鈴をふるわすようなお声で仰せになった。 見玉尼様、貴女様のお言葉にうながされ、無限にひろがる闇をたたえるしずかな貴女様のまなざしに、いっさいが吸いこまれ消えうせてゆくがようにやすらかな心で、おれが畜生に堕ちて過ごしたながい歳月の思い出を語り終えたとき、貴女様はしばらく瞑目し、無言でおられた。 ・・・・・ 「くりかえし、念仏申されませ。そなたの極楽往生は、ただ一度の念仏で決定(けちじょう)いたしておりまする。」 ・・・・・ ※見玉尼(けんぎょくに、1448〜1472)は、比叡山延暦寺の襲撃を避けるために福井県あわら市吉崎(現在)に道場を築いた本願寺八世・蓮如の二女。1471年からは吉崎で父(蓮如)と過ごし翌年25才で没した。「信心が定まって極楽往生した」と蓮如は記した。 |
越前では、大地を血で何度も塗り替える死闘を繰り返してきた一向宗と朝倉家は信長や信玄の勢力拡大に対抗する必要に迫られ、1571年朝倉義景は娘を浄土真宗本願寺11世である顕如の子・教如(1558〜1614)に嫁する約束を交わして敵対関係から同盟関係へと転換し越前で60年振りに一向宗を解禁した。1573年朝倉家は滅んだが義景の娘は越前を脱出して生き残り石山本願寺の教如の許に迎えられている。 信長に対して徹底抗戦で団結していた本願寺教団は1573年の武田信玄の死をきっかけに穏健派と強硬派とに分裂しやがて本願寺は東西に分立した。本願寺は以後、権力に対決する事なく静かに宗教活動に専念している。 『関ヶ原』(司馬遼太郎、新潮文庫) ・・・・・ 金川(神奈川)の宿で休息したとき、西のほうから黒衣の僧数人がやつてきて家康に拝謁をもとめた。近臣は追おうとしたが、その僧の名乗りをきいて驚き、家康に取りついだ。 「教如」(きょうにょ) というのである。年は四十二三で、旅にやつれてはいるがいかにも貴族的な風貌をもっていた。 教如、名は光寿。本願寺門跡顕如(けんにょ)の長男としてうまれている。天正年間、当時摂津石山(大坂)にあつた本願寺が織田信長と数年にわたって戦い、ついに正親町帝(おおぎまちてい)の勅諚(ちょくじょう)で和睦した時、長男の教如はこの屈辱的な和睦をよろこばず、抗戦派の僧俗と本山を脱走し、その後、織田軍に追跡されて諸国を流浪した。 やがて秀吉の代になり、秀吉によつて本願寺は京都に移され、教如も寺にもどり、本願寺門跡十二世を継いだ。 が、すぐ秀吉の内命で異母弟の准如(じゅんにょ、光昭)に法統をゆずらざるをえなくなり、若くして隠居した。 この間の事情について世間では、 ――太閤の好色によるものらしい。 と噂した。先代顕如の後妻が世に聞こえた美人だったため秀吉はひそかに召してこれを愛した。この後妻の実子が准如だったために秀吉が教如を隠居させて准如に十三世を継がせたのだという。 そういう噂を、家康はきいている。(教如は、当然、太閤と豊臣家に恨みを抱いている。それについてわしになにか頼みがあるのであろう)と思って引見すると、教如は果たして、 「このたびの御出陣につき、なにかお役に立ちとうござります。幸い、われらが門徒はこのたびの戦場である美濃や近江に多うござりますゆえ、彼らをそそのかせて一揆をおこさせ、治部少輔の足搦みをさせようかと存じまするがいかがでござりましょう。」といった。 家康はさすがに苦笑し、 「私はべつに僧の力を借りる必要はない」 と言い、しかし御坊のお立場についてはかねがね同情していた、この戦いがおわれば身の立つべきよう思案してさしあげるゆえ、ゆるりと江戸で滞留しておられよ−といった。 家康は、戦国以来、諸大名がもてあましてきた本願寺の勢力を、この教如を用いることによって二つに裂こうと考えた。 やがて戦後、京の本願寺の東側にいま一つの本願寺を建てることを許し、この教如を法主(ほっす)にしてやった。いわゆる東本願寺である。全国の本願寺の末寺は二つに割れ、西本願寺のほうには一万二千ヵ寺が残り、家康によって創建された東本願寺のほうには九千数百が集まった。・・・・・ |
梅原猛は『京都発見』で異なる説を唱える。 10年余にわたって信長と戦った11世・顕如の死後、教如が本願寺の12世を継いだが、顕如の遺書には弟・准如を本願寺の跡継ぎにするように書かれている、と秀吉と共に母・如春尼(にょしゅんに)が強硬に迫ったのでやむなく跡継ぎの座を譲った。その背景として信長に妥協した顕如派と徹底抗戦を主張した教如派との対立も関係していた。 准如の後は良如、寂如と学問、芸術を好む門主が続き、かくて西本願寺は武力を捨てて新しい宗教的権威であると共に学問芸術の府として宗教活動に専念することになった。 |